執筆・講演

立命館大学 学術講演会
2009年12月4日(金)

「経営者・起業家に大切な“思い”とは」
― アフラック創業者が学生たちへ贈るメッセージ ―

アフラックはお陰様で、この11月に35周年を迎えました。35年を迎えた今日現在、創業からアフラックの根底に流れているのは、「がんの悲劇からお客様を救いたい」「民間厚生省」となって社会的使命を果たしたいという想いです。
本日は、経営者・起業家に大切な思いについてアフラックの創業、経営を通じてどんな想い込めてきたかお話させていただくことで、学生の皆さんへのメッセージとさせていただければと思います。

1.生い立ち

(1)アフラックは社会起業
さて、いかがでしょうか。アフラック創業の想いにつきましてはお手元にありますロータリーの卓話の資料でも触れておりますが、一言で申しますと、アフラックは社会起業であり、創業は、私利私欲ではなく、「愛」と「正義」「社会の矛盾」に挑戦したということをご理解いただきたいと思います。この仕事は必ずやお客様のためになる。将来絶対に評価され、感謝されることを信じて創業したという視点があることをご理解いただきたいのです。

(2)人生のリハーサル
私がアフラックを創業したのは35歳の時です。それ以前の私の人生は挫折の連続で、随分回り道をしましたが、結局は近道でした。何故なら、命をかけてやりたい「人」と「仕事」に出会ったわけですし、本当にやりたい仕事の本質、意味がわかったわけですから。

そしてアフラックの創業には、生まれ育った環境も大いに関係しているのです。私は、広島県の東北部にある庄原市に生まれました。当時は、中国山地にへばりつくように集落が点在する僻地でした。冬には2メートルも雪が積もるほどです。小学校に上がる前の4、5歳のころ、私は、深夜、祖父に連れられて氏神様にお参りすることがしばしばありました。お宮さんは長い石段の上にあり、往復には2時間はかかったと思いますが、暗い山道を歩き通すのは貴重な経験でした。その後も、私は小学校から高校を卒業するまで、通学の行き帰りにお宮参りを続けましたが、これが私の体力と心の成長の基礎を作った原点だと思っています。何故なら学校の往復の時間で人生のリハーサルができたからです。
20歳、30歳になったら何をしようと。そのためには、今、何をしなくてはならないかという逆向きの発想です。現在から先を見ることは難しいのですが、逆からみることで自分自身を客観的に見ることができるのです。

(3)大原幽学、賀川豊彦との出会い

人の出会いは誰にでもたくさんあります。出会いは偶然ですが、自分の自由な意志で選べるのです。高校時代に伝記や自伝を通じて知り得、その生き方、活動に大いに憧れた人物がいます。それは二宮尊徳、大原幽学、賀川豊彦といった人たちです。こうした人たちの共通点は、強い信念と使命感をもち、農民や貧民を全力を尽くして救う活動をしたということです。
私がなぜ、こうした人たちに強い憧れをいだいたのか考えてみますと、幼い頃から父母から「世のため、人のため」になる仕事に就けと教えられ育ったことで、社会のために活動する人物に惹かれたのだと思います。

2、運命的な出会い

(1)挫折を繰り返した前半生
高校時代には庄原を抜け出し作家になりたいと家出したり、卒業後は農業指導者を目指し米国に留学。孤独感を癒すために日曜礼拝に参加し、そこで洗礼を受けクリスチャンに。そして宣教師を目指したり。米国から帰国後は、国会議員秘書となりましたが、政治に失望し挫折しノイローゼになったり。その後保険のセールスマンになり、トップの成績を上げ、自ら損害保険代理店を設立するなど、本当に揺れ動く前半生でした。

 

(2)1本の電話
そんなある日、かかってきた1本の電話が人生をかえました。32歳のときでした。「アフラックの日本進出の手伝いをしてほしい」と。実は、アフラックは日本の大手生保全部に声をかけたのですが、全部に断られ、最後に私のところに順番がまわってきたのです。

(3)半年間の苦悩後、リスクを覚悟し、アフラック創業を決意
当時の米国アフラックは収入保険料で全米1800社中400位程度の設立20年弱の無名の保険会社でした。また、日本でも35年前は、がんという病気は、「死にいたる病」として、タブー視されていました。「家族にがん患者がいるだけでお嫁にいけない」とまで言われていた時代でしたから、こんな時代に果たして、「がん」と名のつく商品が売れるのだろうかと随分悩みました。10人に相談すると9人が反対するほどでした。そして半年間悩んだ結果、日本に創業することを決意いたしました。

リスクは承知のうえで、「誰もやらないなら 私がやろう。これは天命だ」と思いました。少年時代から「世のため、人のために仕事がしたい」と思っていたチャンスが、今こそ、やってきたという感じでした。そして「この仕事は社会的に意義がある。」と思えたこと、経済的悲劇から救うことができる社会のために役に立つ仕事であり、私の生活信条に合っていることだと思い、取り組んでみようと考えたのです。
また、大勢に反対されたからこそ、やる気になったのかもしれません。チャレンジ精神が触発されたのかもしれません。自分の信念に賭けたといってもいいでしょう。そして、いっそ、「今までの日本にはなかった保険会社を作ろう」と大借金をして創業を決意いたしました。
使命感は何によって生まれてくるのかということですが、ここが大事なのです。つまり、世のため人のために役立たない仕事には使命感など全く出てこないのです。使命というのは自分がほれ込んで、とことん尽くすものです。

(4)J.Bエイモス氏との出会い
保険という仕事ともに、私がアフラック創業を決意したもう一つの要因があります。それは、米国アフラック創業者J.Bエイモス氏の人柄に惚れ、この人のためなら命を燃やそうと決意したことにあります。「がん保険」の必要性を訴える経営者のJ.Bエイモス氏の情熱に、次第に、胸をうたれるようになりました。アメリカの建国の父、ベンジャミン・フランクリンのように「自由の追求」「楽天主義」「飽くなき探究心」「冒険心」の旺盛な方で、彼の人間的な大きさには圧倒されました。この出会いを大切にしたことが人生の大きな転機となり今でも、エイモス氏との出会いは、運命的なものだと信じています。

(5)事業免許の取得に2年半
さて、アフラック創業を決心しましたが、その後が本当に大変でした。大蔵省(現・金融庁)から「がん保険」の許可が下りるまで2年半を要しました。その2年間は毎日のように大蔵省へ出向き、お願いしました。その姿をみて「大竹さんは省の人間よりも出勤率がいい」とからかい半分にいう人もいた程です。
お役所通いも大変だったのですが、いつまでたっても日本での認可が下りず、米国本社は日本進出を諦めました。そのため、米国から送金もストップしてしまい、社員の給料を払うために、それまで経営していた会社の権利を譲って得たお金と、銀行(旧第一勧業銀行)から丸裸になるくらい大借金をして乗り越えました。こうした苦労の末、ようやく大蔵省(現・金融庁)と厚生省(現・厚生労働省)から「がん保険」の販売の認可をとり、アフラックを創業することができたのです。この許可は戦後2番目の外資系保険会社への認可となったのです。
このように、私だけでなく、事業を起すということはリスクを請け負うということなのです。

創業35周年
35年前スタートしたアフラックはお陰様で2000万件の保有契約件数になりました。
また、2008年度にアフラックがお支払いした保険金・年金・給付金の合計額は4、027億円に達し、1営業日あたり平均16.5億円となります。そのうち、がん保険では保険金・給付金の合計金額は2、930億円となりました。実に、1営業日平均12億円のお支払いをしている計算になります。創業以来、2008年度末までのがん保険の累計お支払い金額は4兆3742億円に達し、お支払い証券数は195万674証券にのぼっております。
このことは、まさに創業時、米国本社の創業者から「アフラックはお支払いするために会社だよ」と教えららことが、実現できている、まさに社会のインフラ、民間厚生省としてお役に立てているのではないかと思います。

また、保険会社としての事業だけではなく、社会の市民企業として社会に貢献することが、アフラックの文化として社員にも根付いています。アフラックではがん遺児奨学基金、ゴールドリボン運動(小児がん啓発活動)、ペアレンツハウスといった社会貢献活動を行っております。
ペアレンツハウスは小児がんなどの難病治療の通院施設で、ここ、関西では東京に引き続き3等目となるペアレンツハウス大阪が来年1月にオープンいたします。
こうした社会貢献活動により、35周年の社員アンケートでもアフラックのここが好きの第一位に「社会的意義の高い事業」があげられました。

アフラックはまさに天の時、地の利、人の和「天地人」により創業し成長できたのです。
「I have a dream」と個人が夢を持ち、そして、その「個人の夢」を実現しようとする強い意志をもち、行動を起こすことです。「リード・ザ・セルフ」「リード・ザ・ピープル」「リード・ザ・ソサイアティ」と自分自身、そして人々、最終的には社会をもその活動に巻き込むことで、夢が実現できるのです。アフラックはまさにこの軌跡を辿っているのです。

リーダーの要件

倫理観を持つ

 (1)アフラックの成功はどれだけ皆様のお役に立っているか
 このようにリーターとしての要件とともに必要なことは倫理観です。アフラックはこれまでご紹介させていただきましたとおり、「民間厚生省」として社会的にお役に立つ会社として、お客様とともに成長させていただいたております。私は、アフラックの成功はどれだけ皆様のお役にたっているか、どれだけ有益な価値をもたらしているかということであると思います。
 新しい事業を起こし、成功を夢みることはとても大切なことです。しかし、事業を拡大する上で忘れていけないのは倫理感です。
昨年のリーマンショックを経験し、皆さんも利潤の追求だけでは企業は生き残れない、また誰もついてこないことが分かったのではないでしょうか。この世界的混乱は、我々は社会の一員であるから、社会に貢献できる企業にしなければならないということを教えてくれたのではないでしょうか。

 (2)「偽り」「嘘」「見栄」が蔓延
今、世界中で、あるいは日本国で蔓延している言葉が3つあります。1つは偽り。偽装です。昨年は産地偽装が発覚し、倒産したり、販売中止となったことは皆さんご存知だと思います。長い時間をかけて培った信用や、ブランドを自らの手で壊してしまう事件が後を絶ちません。これは何故か何回繰り返されても止むことがありません。
2つ目には、嘘。企業経営者の中にもそういった方が多く見受けられます。
3番目は、見栄です。時代の兆児、学生ベンチャーとして脚光を浴びたホリエモン事件、そして、昨年のリーマンショックを引き起こしたは米国危機の第一の要因は、経営倫理が欠如していたことです。サブプライム・ローンは、マイホームの夢を追う庶民の弱みにつけこみ、不動産価格が上がり続けるというあり得ない前提で見かけの貸出し実績を積み上げました。前提を少し変えれば、将来の借金の負担を小さく見せることができますが、夢を追う庶民がこうした説明に引っかかることを知りながら貸し出しを増やしたわけです。倫理欠如の問題です。

終わりに
 人生はどんなに回り道をしても無駄にはならないということです。むしろ近道です。是非とも時間をかけて、じっくりと「好きで好きでたまらない仕事」を見つけていただきたいと思います。
そして私がアフラックを創業したと同じように、社会の役に立つという高い志と視点をもち、こんな仕事がビジネスになるはずがない。と思われることをビジネスにしていただきたいと思います。若い皆さんですから命がけで、失敗を恐れずリスクをかけて挑戦していただきたいと思います。

失敗から学ぶ
しかし、一方で日本は失敗が許されないという風土があり、創造性が発揮しにくいのが現実です。アメリカ人は、10社に関与して、1つか2つ当たればいいと考える。8回、9回失敗しても敗者復活ができる社会構造であり、新しいものを取り入れることを恐れません。反対に日本人は、失敗を恐れて、失敗から学ぼうとは思わない。
米国では、「リスクがあっても挑戦し、成功する人を高く評価し尊敬する」ということがあります。誰かが成功すると一緒になって喜ぶ。しかし、日本人は、どうしても、その点が欠けていて、何か、はみだして成功した人たちをねたんだりするところがあるように思います。
また、米国には「失敗から学ぶ」文化があり、失敗を徹底的に分析し、論理的に検証し、次の成功につなげるが、日本は反対に失敗を隠蔽してしまう。こうした意識の違いもあるように思えます。
私は、実際に失敗に学ぶことを経営として取り入れました。これはマリオットホテルの手法から学んだのですが、社員がケアレスミスや初歩的な過ちを犯す。あるいは大きな失敗を繰り返すということが目立っていたものですから失敗事例集を作りました。「失敗したことを全員が報告してくれ。今日失敗したことを今日出したくなければ、1カ月後でも半年後でも1年後でもいいから出してください。名前を出す必要は全くありませんよ。」と失敗から学ぼうという運動をやって参りました。
よく、失敗要因は何ですかという質問がありますが、失敗要因はこれが失敗だったというのは間違いで、複雑に失敗要因が絡んでいるのです。成功要因もそうなんです。
 ですから失敗は恐れずに、それを糧とすべく、チャレンジしていただきたいと思います。

そして倫理観とアイデアと工夫をもって社会を変えようと、輝ける新たな時代を築いて社会の役に立とうという強い意思を貫き通し、新しい社会の機軸をつくり、よりより日本、世界にしていただきたいと思います。次世代を担う皆さんのご活躍に期待いたしております。

執筆・講演一覧へ戻る