執筆・講演

日米協会・昼食講演会 2011年2月3日

「アフラックはなぜ成功したのか、その哲学を語る」

1.アフラックとの出会い

 私がアフラックに出会ったのは32歳のときでした。外資系損保の代理店の仕事をしていた時、架かってきた1本の電話が人生を変えたのです。「アフラックの日本進出の手伝いをしてほしい」と。実は、  アフラック米国本社は日本の大手生保全部に声をかけたのですが、全部に断られ、最後に私のところに順番がまわってきたのです。
 当時の米国アフラックの創業者ジョンB. エイモス氏に「日本での事業の立ち上げに協力して欲しい」と言われたのです。
 40年近くも前のことですから時代背景も今とは随分違って、「がん」は「死」を連想し、「がん」という言葉自体がタブーという、今では考えられない時代でした。
 日本でも当時は、家族にがん患者がいるだけでお嫁にいけないと言われていた時代です。周囲はアフラックの創業を引き受けることにこぞって大反対でした。反対の理由は「成功するとは思えない!」ということでした。しかも、当時のアフラックは収入保険料で全米1,800社中400位程度の設立20年弱の無名の保険会社でした。当然と言えば当然ですが、どこの他の大手生命保険会社も引き受けることに同意をしなかったのです。

 もちろん私自身も「果たして"がん"と名のつく商品が売れるのだろうか」とずいぶん悩んだこともありました。しかし、ジョンB.エイモス氏との不思議な出会い、彼の哲学、信条、勇気、そして人柄が私を揺り動かし「誰もやらないなら私がやろう。これは天命だ」と決意させ、高いハードルにも挑戦する気持ちになったのです。そして乗り越える力を得たのです。要するに彼の熱い想いにほれ込んだ訳です。言葉を換えて申しあげれば彼のリーダーシップに感服したのです。そういう方でした。
 また、米国にあって何故日本にないのかといった矛盾。そして大勢に反対されたからこそ、やる気になったのかもしれません。チャレンジ精神が触発されたのかもしれません。自分の信念に賭けたといってもいいでしょう。そして、いっそ、「今までの日本にはなかった保険会社を作ろう」と大借金をして創業を決意したのでした。

 しかし、もっと私の背中を押したのはアフラックの仕事が私が幼いころから父母に教えられた「世のため、人のため」になる仕事と確信したことでした。

2.創業時の大奮闘

 さて、アフラックの創業を決意し、「がん保険」の認可を大蔵省に申請しましたが、認可が下りるまでは、これまた容易でない苦労の連続でした。茨の道だったのです。当時の大蔵省に日参し、更に私財を投げ打って頑張ったこともありましたが、私には「大蔵省は必ず認可をする」という信念のようなものがありました。その様な筆舌に尽くし難い苦労を経て、ようやく大蔵省(現・金融庁)と厚生省(現・厚生労働省)から「がん保険」の認可をとり、アフラックを創業することができたのです。何と申請してから2年半の月日が流れていました。

 私は、大蔵省からの認可を受ける前から、全国の金融機関やマスコミ、大手企業に「認可がおりますから<がん保険>の代理店になってください」と言って全国を回りました。そして、日立製作所や第一勧銀などの有力企業の子会社も、そして私の想いに賛同してくださった個人の皆様方も相次いで代理店登録をしてくれました。地方の有力企業も代理店になってくれました。

 代理店登録の次は、アフラックの社員集めです。事務所も日本橋から新宿の三井ビルに引っ越してきました。創業時の社員は、保険業界からは採用しませんでした。商品としての「がん保険」およびチャネルとしての「代理店方式」は、当時の生命保険会社の常識外だったわけですから、まったく違った業界経験者から人を採用しました。そのため「野武士集団」と揶揄されたほどです。
そして、保険会社の経験がないほうが、「これは生保のやり方ではない」といって拒否されないだろうと思った訳です。

3.「規制の裏にビジネスあり」

 アフラックとの出会いとその後の大奮闘についてはただいまお話をいたしましたが、当時の大蔵省と厚生省からの認可取得については申請から2年半もかかったと申しあげました。当時、通産省が資本の自由化を進める中で業種ごとに自由化品目の順位を決定しましたが、保険業は一番最後の品目でした。
 大蔵省への認可申請に際しても「がん保険」という商品の性格からまず厚生省の了解を取ることを求められたのです。厚生省の了解をとり、次に大蔵省の認可をとるまで膨大な時間がかかりました。このように、周囲の誰もが成功するとは思わず、また規制が厳しい分野だったからこそ、がん保険とアフラックのビジネスは、このように成長することができたのだと思います。

4.社会起業

 「世のため、ひとのためになる仕事」という強い想いをもって創業しましたが、その「想い」は、今でいう「社会起業」、(起業は業を起こすと書きますが)、です。
一言で申しますと、アフラックは私利私欲のために創業したのではなく、「愛」と「正義」と「社会の矛盾」に挑戦したということをご理解いただきたいと思います。この仕事は必ずやお客様のためになる。将来絶対に評価され、人のためになることを信じて創業したのです。アフラック日本社の創業はこうした想いと視点で決意したものであり、その想いは36年も経った今も変わっておりません。そして、アフラックが大きく成長させていただいたことが、私の決断が間違っていなかったことを証明してくれています。

おわりに

 私は、変化の激しい現代にあっては、常に唯一の判断基準を確立することが重要だと思っております。判断基準は正しさが鉄のオキテであり、それは、社会にとって有益であることか(社会有用性)、行ってはならない事業(社会から外れる事業は行ってはならない)ではないか、利益は社会から与えられる報酬であるということを忘れてはならないと思っております。

 今や企業においても、企業市民としての視点をもたなければ、利益の追求だけでは誰も相手にしてくれません。
アフラックは「民間厚生省」として社会的にお役に立つ会社として、お客様とともに成長させていただいております。私は、アフラックの成功の価値はどれだけ皆様のお役にたっているか、どれだけ有益な価値をもたらしているかということであると思います。

 これからのアフラックも、この哲学を維持していってくれるものと期待しておりますし、いえ、維持するばかりではなく、もっと確固たるものにしていかなければならないと思っております。今後も、変わらないものと、変わるものとを明確に区別していく。変わらないものは、顧客第一主義、特化戦略、企業の社会的使命、変わるものは、「顧客個人にもっともっと近づいていく」

 この「変わらないもの」と「変わるもの」さえきちんと押えておけば、「個を重んじる時代」に、アフラックは成長を続けることができると信じています。

 本日は、アフラックの創業から、経営を中心に話をして参りましたが、1974年に日本で初めてがん保険の認可を取得し販売を開始してから、1982年の中小の生保会社との競合スタートを経て、さらに2001年の保険市場での金融ビッグバン政策の実行以来、ここ10年間はさらに激しい競争の中に置かれております。
 このような競争の中で企業努力を重ねた結果、現在のアフラックがあると思っております。今後はますます各社ともそれぞれ独自の進化を重ねて更なる競争を展開していくものと思いますが、公正な競争の下で、お客様がベストな商品、ベストなサービスを提供する会社を選ばれることこそがお客様の利益につながるものと信じております。その中で「選んでいただける会社」となるためには繰り返すようですが、もっともっとお客様に近づいていくことが大切ですし、アフラックの社会的使命を今まで以上に強く意識し、企業努力を重ねることが何より必要だと思っております。

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