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これまでの著書・コラム

コラム — NURSE SENKA

「NURSE SENKA」2008年 7月号
疑問を持った医師たちがブログで意見を発信するネットという新たな情報源

手術中の死亡事故の原因調査報告が元で産科医が逮捕される
 私が「医療報道の光と影」シリーズを始めるきっかけになったのは、2006年2月、福島県立大野病院で産科医が逮捕された事件です。この事件とその報道が産科医療崩壊を加速させたと言われており、その後の医療安全調査委員会の設置をめぐる議論の原点ともなっています。すでにこの連載でも何度か触れてはきましたが、報道のどこに問題があったのか、そしてそれがメディアのあり方にどういう影響を及ぼしたのかを改めて検証したいと思います。
 事故が起きたのは2004年12月。帝王切開中の経産婦(29歳)が前置胎盤の剥離中に出血多量で死亡しました。遺族の訴えに応えて福島県は事故調査委員会を設置して原因究明にあたりました。その結果、県は医療ミスがあったことを認めて遺族に謝罪しました。これを受けて、今度は警察が捜査を開始し、業務上過失致死罪および異状死の届け出義務違反(医師法第21条)の疑いで、医師を逮捕したのです。
 メディアは産科医逮捕という衝撃の医療事故として、警察発表を元に大々的に報道しました。赤ん坊の誕生を楽しみにしていた家族の気持ちを踏みにじり、若い母親のいのちまで奪った極悪非道の医師として、連行される映像も何度も繰り返し流されました。
 逮捕された産科医と親しかった福島県立医大産科婦人科教授の佐藤章氏は憤懣やるかたないという表情で訴えます。
「私はマスコミにクレームをつけたいですね。まだ有罪か無罪かも決まっていない時にあたかも殺人者なんだという感じで取り扱われたと思っています」
 さらに佐藤氏はこの手術をミスと決め付けるのには問題があると指摘します。
「前置胎盤とは子宮の出口を胎盤が塞いでいる状態で、そのままだと帝王切開をせざるをえません。全症例のわずか0.5%という珍しい症状です。しかもこの方の場合にはさらに胎盤が直接筋層に癒着していました。前置胎盤の中で癒着胎盤というのは3%、すなわち1万例に1例というきわめて特殊で難しい症例だったのです」

業務上過失致死罪が医療行為に適用されるという刑法上に問題が
 難しい手術に失敗しただけで、警察が何故に逮捕にまで至ったのでしょうか? 佐藤氏は続けます。
「警察の判断はこうです。このドクターは手術を始めた後で癒着胎盤に気づき、無理にはがそうとした。それが大量出血につながった。医師としてはやってはいけないことをしたということなんです。しかし、分娩前に把握できていれば対応できたかと言えば、それはどうでしょう? このケースは予測できないほど珍しい症例だったということを考慮するべきですよ」
 東大医科研客員准教授の上昌広氏は警察が医療に介入すること自体に疑問を呈します。
「医療というのは多様な見解がある中でベストを尽くすものであって、複眼的に見なければなりません。ところが警察のような素人集団はまずは結論ありきで見ようとしますから、多様な意見を聞いてないんです。しかし、いったん権威が動くと、我々だけではなかなか覆しにくい。欧米で日本のように警察が医療に介入する国はありませんよ」
 民主党の鈴木寛参議院議員はもっと深い問題があると指摘します。
「医療行為にも、車の運転にも同じ業務上過失致死罪が適用されるというのはいかがなものでしょうか? 車は安全に運転することが前提になっていますが、医療の場合は、医師が何も手を施さなければ悪化する、場合によっては死に至るわけで、安全が前提にはなっていません。明治にできた枠組みをそのままにしているという刑法上の問題ではないでしょうか」
 私も警視庁記者クラブで取材していたことがありますが、警察が実際に捜査を始め、容疑者逮捕にまで至った場合、メディアがその逮捕そのものに懐疑の眼を向けるというのは容易なことではありません。佐藤氏は言います。
「刑事事件になると刑事専門の記者が来ます。初めから殺人者という認識なんですね。彼らはなぜそうなったか、医学的に理解していないんです。そういう人たちが書いた記事を読んだ一般の人はもっと分からなくなりますよね」

産科医を救おうと全国から署名が集まり厚労省が検討会を設置
 記者クラブ制度によって支えられた報道の限界とも言えそうですが、実は今回の大野病院事件においては特筆すべき新たなメディアの動きがありました。それはインターネットです。医師逮捕に疑問を抱いた他県の産科医が事故報告書を入手し、ネットで公開したのです。すると同じように疑問を持っていた医師たちがブログで意見を発信し始めました。上氏も意見を発した一人でした。
「この件について直接かかわっておられた先生からもメールで情報をいただいたりしているうちに、私も事態の深刻さをだんだん理解していきました。それで自分たちの知り合いにどんどんメールを転送してお知らせしていきました。その人たちがまた周囲に知らせるカタチになって、医療者の中にひとつの世論ができていきました。それでメディアの報道自体がおかしいんじゃないかという議論が盛り上がっていったんです」
 医師たちは逮捕された産科医を救う署名活動を展開し、1週間で6520名の署名を集めました。こういった動きに押されるように厚生労働省は医療事故安全調査委員会を設置するための検討会を始めました。そして外部からもパブリックコメントを募集し、一般の医師たちもどんどん声をあげていきました。報道をただ受身で受け入れるのではなく、専門家として意見を発信し、新たな議論の流れを作ってくるというのは、まさにインターネットならではのチカラと言えそうです。ITに詳しい鈴木氏は言います。
「ネットの情報には不確かなものもたくさんあります。しかし、今回は医師が自分はどこの病院で働く何科の誰であるかを明記し、実名を出した上で、意見を寄せているんですね。そこが違うんです」
 大多数の国民はネットよりもテレビを見ているわけですから、影響力から言えば、まだまだ小さいかもしれません。しかし、インターネットはマスメディアで働く記者も見ていますから、確実に貴重な情報源のひとつとなってきています。今後、いいカタチで報道とネットが補完し合うことができれば、警察発表をうのみにするのではない新たなメディアが育っていくことになるのかもしれません。

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