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これまでの著書・コラム

コラム — NURSE SENKA

「NURSE SENKA」2008年11月号
医学の進歩には挑戦が不可欠、トラブルが起きた時には客観的な検証が必要

警察発表の第一報が検証がないままに世の中の流れを形作る
 医療報道を検証するシリーズで今回は2002年11月に起きた「慈恵医大青戸病院事件」を取り上げました。3人の医師が腹腔鏡手術に失敗し、患者を死なせてしまい、逮捕されたという事件です。
 腹腔鏡手術とは内視鏡を使って患部を摘出するもので、メスで身体を切り開く手術に比べて、患者へのダメージも少ないことから、新しい手術法として注目を集めていました。ただ、医師が患部を直接見るわけではないので、高度な技術が必要とされていましたが、この3人の医師は経験も浅く、腕は未熟でした。
 メディアは一斉にセンセーショナルに報道しました。「技量不足で難手術」「器具使い方知らず」「業者が立ち会い」「マニュアル横目に執刀」「難手術、やってみたい」「手術経験、助手で数回」当時の新聞の見出しを並べてみるだけで、どういう論調で伝えられたか、よく分かります。
 すなわち、経験も技術も十分でない若い医師たちが、自分たちの功名心や好奇心から前立腺がん摘出の難しい手術に挑戦した。彼らは器具の使い方すらよく知らなかった。そのために、業者を手術室に立ち会わせ、マニュアルを壁に貼って、それを見ながら執刀した。それはさながら人体実験のようなものであって、無謀で傲慢な許すべからざる犯罪行為であった……。
 当時の報道に私も身の毛のよだつ思いがしたことをよく覚えています。しかし、よくよく考えてみると、経験不足といっても新しい技術が普及していく過程ではやむを得ない面があることも事実ではないでしょうか? そもそも医学の進歩には、実験的要素がつきものだったはずです。経験不足というのは本質的な問題なのでしょうか?
 この事件後、この病院の泌尿器科部長代行として警察やメディアへの対応にあたった和田鉄郎氏は語ります。
「殺人事件担当の捜査一課という人たちがいきなり病院の中に入ってきて、医療関係者を犯人という立場で取り調べていったんです。入ったことがないような取調室にいきなり入れられて、机たたいて怒られて、というところから始まりました」
「(メディアの報道は)100%警察の言っていることが正しいかということに対する検証が何もない状態で、第一報が出てくる。それによって世の中の流れが形作られてしまっていて、その後で病院側が記者会見を開くという順番になるわけです。そうなった時には、もう殺人犯を庇うために記者会見を開くのかという感じの報道のされ方になってしまうんです」
 当事者ならではの生々しい証言でしたが、いったん事件の構図が出来上がってしまうと、一つ一つの事実はその構図の中で色づけされてしまうようです。

腹腔鏡手術中に静脈を傷つけて出血9時間後に開腹手術へ
「『業者は立ち会わなかったんですか?』と質問されたので、『いや、立ち会いました』と答えました。『マニュアルは貼ってなかったんですか?』と聞かれたので、『いや、貼ってあります』と答えたんです。
 新しい機械ですから、業者に手術に立ち会ってもらうというのは普通のことです。手順を間違えてはいけないので、慣れている手術でも手順書を貼って行うというのはよくあることなんです。ところがそういう前提を抜きに、一部分だけ切り取られて報道されてしまうと、全くの素人がやったことであろうというイメージになってしまうんですね」
 裁判でも東京地裁で3人の医師に有罪判決が下っている以上、手術自体になんの問題もなかったと言い切ることはできません。手術全体を振り返って、どこに本当の問題があったのかは、あらためて検証する必要があります。腹腔鏡手術がうまくいかなかったという点と、患者を死なせてしまったという点は分けて考えるべきではないでしょうか?
 執刀医が腹腔鏡手術中に静脈を傷つけて出血が始まったのは正午ごろでしたが、彼が開腹手術に切り替えて実施したのは9時間も経過した21時のことでした。途中、麻酔科医がやってきて、「できない手術をいつまでもやるんじゃない。さっさと術式を変えて終わらせなさい」と怒鳴ったといいます。もっと早く開腹手術に切り替えていれば命を落とすことはなかったかもしれません。本来はそこに上司の診療部長がいれば、的確な指示ができたかもしれません。和田氏は言います。
「患者さんの希望で手術日が決まり、学会と重なったために診療部長のいない日になってしまいましたが、本来は立ち会うべきだったと思います」
 しかも、開腹手術に切り替えたものの、輸血部にAB型の血液が不足していて、日赤から取り寄せるのに手間取り、血液が届いたのは22時半。この間に患者の容態は悪化し、23時17分に心停止しました。
 和田氏は輸血用血液の不足については態勢の不備を認めました。
「AB型の患者さんは少ないのでストックがほとんどなかったのは事実です。腹腔鏡では狭い範囲しか見えませんから、出血の量がよくわからなかったんでしょうね。全身の術中管理には足りないところがたくさんありました」

新しい技術導入には医学的検証を行い着実な積み重ねが必要
 このように整理してみると、腹腔鏡手術そのものの問題だけではなく、それを実施するための環境整備にさまざまな問題のあることが浮かび上がってきました。3人の医師を血祭りに上げることでは解決しない、システムの問題です。実はこの青戸病院は腹腔鏡手術の実施場所に認定されていなかったことも後から分かりました。慈恵医大病院の他の病院が認定されていたための思い込みがスタッフにもあったというのです。
 泌尿器腹腔手術のパイオニア的存在である杏林大学医学部付属病院長の東原英二氏は言います。
「新しい技術を導入するためには、医学的検証を行いながら、着実に一歩一歩積み重ねていくことが必要です。私が副腎摘出を初めて腹腔鏡手術でやった時は、どうやって副腎にアプローチすればいいかも分からないので、7時間くらいかかりました。今では2時間で終わるようになっています」
 医学の進歩には新しい技術への挑戦が不可欠です。そこには必ずリスクが伴います。トラブルが起きた時には、素早く冷静に客観的な検証を行うことによって、技術はより確かなものになってきます。メディアも警察も同じ目線で、トラブルの本質をとらえる不断の努力が必要なようです。

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