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これまでの著書・コラム

コラム — NURSE SENKA

「NURSE SENKA」2010年 1月号
日本の基礎医学の現状から見えてくる将来ビジョンの欠如

基礎医学の分野に進む学生が激減して深刻な危機に直面
医師不足、病院閉鎖など医療の危機を伝えるニュースが続いていますが、そこでクローズアップされているのは、病院で働く臨床医たちです。しかし、その陰で、ほとんど報道はされませんが、もうひとつの危機が進行しています。それは基礎医学の研究医不足の問題です。
日本には立派な基礎医学研究の歴史がありました。北里柴三郎、野口英世、志賀潔など、世界的な研究者を数多く輩出してきました。臨床医として生涯救える患者の数は多くて万の単位でしょう。しかし、基礎医学でもし、病気の原因を発見したり、仕組みを解明したりすると、億単位、まさに人類を救うことにもなります。
東京大学大学院医学系研究科の飯野正光教授は言います。
「東大でも今は大学を出て基礎医学に進むのは卒業生100人のうち0〜1人です。昔は5〜10人はいたものです。絶滅危惧種といった感じですね」
日本解剖学会・日本生理学会のアンケートによると、基礎医学教育・研究の危機について、「実感している」が87%、「少し実感している」が13%、すなわちほぼ全員が同じ認識という圧倒的な結果が出ています。どうしてそう感じるのかという問いに対しては、「研究者の減少」「講座の縮小、統合」「学生の臨床志向」などをあげています。
飯野氏は言います。
「基本的に世の中全体が臨床医を育てようというムードで、教育システムも臨床重視となっています。大学に入ったばかりの頃は研究したいと言っていた学生も、結局、臨床を目指すようになってしまうんです」
九州大学生体防御医学研究所の中山敬一教授は言います。
「これは新医師臨床研修制度の大弊害ですよね。当初はこの制度は僕らには全く関係ないと問題視していなかったんですが、始まってみると、驚いたことに基礎医学の分野には誰も来なくなってしまったんですね。今までは臨床から基礎に来る人、そしてまた臨床に帰る人がいて、基礎研究は続いていたんですが、人の流れが止まってしまって、壊滅状態というのが現状です」
精神科医の和田秀樹氏は言います。
「かつては臨床医なのに研究ばっかりやっていて、ろくに臨床もできないという批判がありました。それで臨床ができる医師を育てなければならないということでやってきたんですが、そのとばっちりが基礎医学に来てしまったということなんでしょうね」

研究者の待遇面や将来の生活不安を解消するサポートを
医学生が基礎を選ばないのは、待遇の悪さも大きく影響しているようです。臨床医として働けば、労働は厳しくても経済的にある程度は安定します。ところが研究の道に進むと、大学院生の間は収入を得るどころか、授業料を払わなければなりません。30歳前後の臨床医の平均年収が1000万円なのに対し、基礎研究者は600〜700万円とかなりの開きがあります。しかも基礎に進んだとしても将来にわたってずっと研究を続けて生活していけるという保証はどこにもありません。研究者の一人は次のように言いました。
「終身雇用はあり得ませんし、給料も高くない。将来不安はありますよ」
和田氏は指摘します。
「要するに日本の国家戦略のなさが最大の問題ですよ。最先端の研究をやろうという人が、雇用の不安を抱えるだとか、ペイがよくないだとか、そんなことで意欲を失ってしまうのはよくないですよ。それは国がちゃんと面倒をみるとか、企業が先行投資をしやすくする環境を整えることが必要でしょう。みんなが拝金論になればなるほど、研究者には貧乏臭いイメージがついてしまうという現状はとても残念ですね」
飯野氏も言います。
「今日治せる患者を救うことは大事ですが、今日は治せない患者を将来的に治せるようにしていくにはどうすればいいか。そのためにはまさに国家戦略が必要であり、研究者に対して十分なサポートが求められるんです」

カリキュラムを見直し基礎医学研究の授業を2、3年生段階で実施
しかし、現場もただ単に国の無策を憂い、対応を待ち望んでいるだけではありません。今やれることはないかと試行錯誤も始めています。
九州大学では医学部教育のカリキュラムの見直しを行いました。これまでは医学教育の中で基礎医学研究の授業は6年生の時に1カ月間だけでした。しかし、6年生は臨床研修や国家試験の準備に忙しく、集中できませんでした。しかもその頃にはすでに内科や外科など自らの進路の志望がすでに決まっていて、基礎医学に進もうという動機付けにはなりませんでした。
そこで、もっと若くフレッシュで余裕もある3年生の段階で基礎医学の授業を受けさせるようにしたのです。その新しいカリキュラムで教育を受けた3年生の金光陽子さんは次のように語ってくれました。
「これまで基礎には全く興味はなかったし、基礎か臨床かという選択肢すら私の中にはありませんでした。基礎って遠い世界って感じでしたからね。でも、今は基礎の実験をやったり、研究会に出たりしてみるとすごく面白いんですね。今は基礎も選択肢の中に入ってきたかなってところです」
東京大学でも「MD研究者育成プログラム」という新しい試みを始めています。2年生から少人数の特別カリキュラムを作り、いろいろな実験をしてもらおうというものです。飯野氏は言います。
「研究やってみたら、これは案外面白いぞって分かる人って多いんですね。そういう人材をいかに探し出し、興味を持ってもらえるようにするかですね」
日本人の生理学・医学部門のノーベル賞受賞者は利根川進氏一人しかいません。物理学や化学部門では受賞者が相次ぐのに比べると、やはり見劣りすることは否めません。飯野氏は言います。
「ノーベル賞は政治的な背景もありますから、数自体は気にすることはありません。日本の今の基礎医学のレベルが世界のトップクラスであることは間違いありませんから。ただ、今のままの状況が続けば、将来の日本の基礎医学は惨憺たるものになってしまうでしょう。そのことを我々は危惧しているのです」
目先のことにばかり気を取られ、将来にわたってのビジョンもなく、大局を見通す力を失っている。基礎医学の現状を知るにつけ、今の日本の課題がそこに凝縮しているように思えてなりませんでした。

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