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コラム — ぺるそーな

「ぺるそーな」2004年 7月号

「今はもう2004年にもなっているのに、どうして未だに『報道2001』なんですか?」

 「報道2001」は日曜朝の政治討論番組として13年目を迎えましたが、私が最もよく聞かれる質問がこれです。違和感を持たれる方が多いのは事実のようですね。実は2001年を迎える前に、局内でもさんざん議論したテーマでした。「報道21」にしようか、毎年毎年その年号に合わせて「報道2004」とかにしようかなどなど、ホワイトボードいっぱいにいろんなアイデアを書いて、スタッフみんなで検討を重ねました。ちなみに「報道2001α」っていうのが私の一押しだったんですが。

 しかし、結局、「報道2001」というタイトルのままで行くことになりました。最後は報道局長自らが「『報道2001』の2001は2001であって、2001年ではない!」と、ほとんど意味不明の説明によって、裁断を下したのでした。実は、番組の名前を変える勇気がなかっただけなんだと思うんですが。

 1992年に始まったこの番組のコンセプトは「未来に向けて情報を発信していこう」というものでした。ニュースというのはニューとは言いながら、そこで扱うものはすべて過去の出来事です。比較的新しい過去を伝えるのがニュースなのです。それに対して、本当に未来を伝えよう、番組から情報が飛び出してそれが未来を作る、そんな番組にしたいという思いを込めてつけたタイトルが「報道2001」でした。「2001年宇宙の旅」に象徴されるように、その当時、「2001」というのは未来を感じさせる言葉でした。まさかこの番組が実際の2001年を超えて続くなんて誰も想像していなかったのでした。

 当初は政治家がゲストで来るのはむしろ稀でした。各界の超一流のゲストを招いて未来に向けて提言してもらおうという形式でしたから、まさに多士済々の顔ぶれでした。記念すべき第一回目は大相撲の出羽の海理事長でした。江崎玲於奈、平山郁夫、長嶋茂雄、王貞治、都はるみ、仲代達也、三国連太郎などなど、今からでは考えられないようなゲストのみなさんでした。今は亡き高円宮殿下もバレーの森下洋子さんとともにご出演下さいました。

 ところが番組が始まった1992年の夏に激変が起きました。政界を揺るがす大事件、東京佐川急便事件が発覚したのです。いきなり永田町は大騒動となりました。これまでもロッキード事件、リクルート事件など政界スキャンダルは政界を大きく揺るがしてきましたが、振り返ってみると、過去のどのスキャンダルよりも政界に与えた影響は大きかったようです。自民党分裂、政界再編、細川連立政権樹立という政治史に残る大激変につながっていったのですから。それはテレビがかかわったからこそ起きた大激変だったと私は思っています。まさにこのとき、テレビと政治が密接に結びつく時代が幕を開けたのです。

 「報道2001」自体も大激震に見舞われました。それまでは21世紀の日本、日本人はどうあるべきかという壮大なテーマをゆったりと語っていた番組でしたが、永田町の緊急事態発生を受けて、変わらざるをえなかったのです。いくら未来を見据えることは大事だと言っても、今、目の前に燃え盛っている炎を見て、知らんぷりをしているわけにはいきません。しかも番組は当初から生放送でしたから、最もホットなテーマをホットなゲストから聞きたくなるのは自然の流れでした。そこで今、焦点になっている政治家をゲストで呼ぶようになったのです。

 政治とカネをめぐるスキャンダルでしたから、国民はみな怒っていました。その怒りの気持ちを代弁することが視聴者のみなさんから私たちに期待されていることでもありましたから、ついつい政治家への質問も詰問口調になることも多くなってきました。私自身もゆったりと構えて話を引き出すインタビュアー的キャスターから、田原総一朗流とまではいかないまでも突っ込み型へと変身していきました。その結果、視聴率がみるみる上昇していったのです。

 視聴率は私たちテレビマンにとっては普通の会社でいうところの営業成績のようなものです。視聴率が悪ければ、番組はあっという間に打ち切りになります。視聴率が伸びれば、それは視聴者のニーズに応えていると判断されるため、番組の方向性は決定づけられてきます。政治家ゲストにその折々のホットイッシューで切り込むスタイルの「報道2001」はその時、原型が出来上がったのです。

 テレビだけでなく、時代そのものが大きく変わり始めていました。政治への関心そのものが一気に高まってきました。それまでは政治家がテレビに出ても、視聴率は取れませんでした。ですから、政治家をゲストで呼ぼうなどという番組はほとんどありませんでした。それが激変したのです。視聴者のみなさんが政治家の話を聞きたくなったのです。ただし、最初は政治とカネのスキャンダルを追及されて、しどろもどろになる政治家の姿を見て、溜飲を下げるというような見方だったとは思いますが。

 政治家ゲストを呼び、視聴率が急上昇を始めた「報道2001」の方向性をさらに決定付けたのが、新聞との関係でした。つまり、月曜日の朝刊に「報道2001」における政治家の発言が記事になることが増えてきたのです。産経新聞は「『報道2001』によりますと」と書いてくれましたが、それ以外の新聞は「民放の番組」としか書いてくれませんでしたが。(これは今も同じです!)番組が時代に合わせて変化したと思っていたのですが、皮肉なことに、回りまわってまさに番組からニュースが飛び出す未来志向型番組になっていたのでした。

 朝日放送系の「サンデープロジェクト」は、私たちより少し前にスタートしていましたが、当初は日曜朝のワイドショーを目指したということでした。しかし、同じような理由で、やはり政治家との激しいバトルの討論番組となっていきました。NHKの「日曜討論」も以前はVTR収録番組だったのですが、生放送に変わりました。この頃から、同じゲストがまるでご一行様のように、7時半からはフジテレビ、9時からNHK、10時からテレビ朝日とスタジオ周りをするという現象が起きたのです。

 それまでは政治家が国会で山のように討論を重ねても、それを記者が加工してエッセンスになったものを国民は見ていただけでした。それが様変わりし、記者が原稿を書く元になる政治家の話をテレビの生放送を通じて視聴者も同時に知るようになったのです。日曜は早朝から働かされることになっただけでなく、テレビを見ながら記事を書くことになった新聞記者のみなさんには不評でしたが、政治と国民の距離が一気に縮まったことだけは間違いありませんでした。

 あれから12年、実にさまざまなことがありました。小泉政権というのはテレビ政治がもたらした果実のようなものです。今やテレビ抜きでは語れなくなった政治の世界の変化を、誰よりも間近かで見てきた私だからこそ言えることもあると思います。そこで、せっかく与えられたこの連載ページを使って、私なりに「報道2001」の現場から見たテレビ政治の功罪について検証していきたいと思っています。

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