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これまでの著書・コラム

コラム — ぺるそーな

「ぺるそーな」2004年10月号

 私はアナウンサーではなく、いわゆる記者出身のキャスターです。記者クラブの経験自体は多くありませんが、政治部の記者も2年間だけ経験しました。今からちょうど20年前、時は中曽根内閣で私は宏池会担当、田中六助幹事長番記者でした。田中幹事長は私が担当して2ヶ月もしないうちに入院し、そのまま亡くなったので、私は田中幹事長最後の番記者ということになります。安倍、竹下、宮沢の3人がニューリーダーと呼ばれた時代です。初めて会った宮沢さんは黒いサングラスをかけていました。ホテルで暴漢と格闘し、怪我をされた直後でした。

 宮沢さんが中国訪問中に総裁選に名乗りを上げ、ポスト中曽根をめぐって総裁選の前哨戦が始まりました。今とは違って、次なる総裁候補の顔がはっきりと国民に見えていた時代でした。派閥担当記者にとって、総裁選取材は最もやりがいのある仕事でしたから、私も新米記者ながらワクワクしながら見よう見まねで夜討ち朝駆けを繰り返していました。ところが、それはあっけない幕切れとなりました。二階堂擁立劇なるものが進行し、それが頓挫した結果、任期1年延長による中曽根総裁続投が決まったのです。

 宏池会の領袖、鈴木善幸元総理が、自派閥の総裁候補の宮沢さんを推さずに田中派の二階堂進氏を担ぎ出そうとしていたというのには驚きました。しかも公明党、民社党も外野から旗を振っていたと言いますから、成功していれば政界再編につながったかもしれない大事件でした。毎朝毎晩、鈴木邸に出かけていた我々番記者は誰もその企てを見抜けずに、大スクープを逃してしまいました。政界は一寸先は闇という言葉を身にしみて感じさせられた、私にとっては貴重な永田町の洗礼でした。

 あの当時を振り返ってみて今と決定的に違うことは、テレビと永田町の関係です。当時は、「報道2001」も「サンデープロジェクト」もありませんでした。「竹村健一の世相を斬る」は政治家出演に先鞭をつけた番組でしたが、これは竹村さんの独自の切り口で進行する番組で、政治部記者のニーズに応える番組ではありませんでした。NHKの「日曜討論」は生放送ではなく事前収録の番組でした。たいがい、金曜日の午後に収録していましたが、私たちは国会を取材していても、NHKの収録が予定されておいるときは気持ちが楽でした。テレビでは対決姿勢のまま臨みたいという与野党の思惑が一致し、週末までに絶対に合意しないということが読めたからです。いわゆる55年体制ののどかな時代でもありました。

 今なら、総裁選の前哨戦が始まった季節になれば、候補と目される人たちは日曜朝は各テレビ局を行脚し、各キャスターたちの質問に必死で答え、その出来不出来が選挙の行方を大きく左右することになります。しかし、当時、安倍、竹下、宮沢の3人がテレビの生放送で議論を交わしたということは、少なくとも私の記憶の中にはありません。もし、テレビで各候補たちがそれぞれの主張をぶつけ合い、激しいつばぜり合いが始まっているその裏側で、二階堂擁立劇なるものが進行していたなんてことが分かった日には、国民は裏切られと感じ、メディアはいっせいに批判ののろしを上げたのではなかったでしょうか。

 特に私が担当していた宮沢さんは当時から大のテレビ嫌いで通っており、私もずいぶん苦労した経験があります。FNNで事前世論調査をし、安竹宮のうち誰が総裁になったらいいかというアンケートを実施した時のことです。夕方のニュースでは、その調査結果に対する各候補のリアクションのインタビューを並べて放送することになりました。たまたま私は他の仕事で手が離せなかったことから、先輩記者に宮沢さんへのインタビューをお願いしました。国会の廊下で待ち受けていて、調査結果をお見せし、一言コメントをもらうというものでした。

 ところがここで大問題がおきてしまいました。宮沢さんはテレビカメラがいきなりやってきて、照明に照らし出され、マイクを突きつきられるということに、激しい嫌悪感を抱く人なのです。インタビューが始まった途端、露骨に顔色を変え、マイクを振り払って、無言のまま立ち去って行ってしまったのです。

 さてそのまま放送していいものかどうかをめぐって局内で大議論になりました。安倍さんにしても、竹下さんにしても、にこやかに余裕の表情を浮かべながら、しっかりと答えているのです。それと並べてこの宮沢さんのVTRを流すと、イメージダウンになることは間違いありません。インタビューで無視された先輩は「これこそ宮沢さんの真実の姿なんだからそのまま放送すべきだ」と主張しました。しかし、議論の中味で差が出るのはやむをえないとしても、こんなことで総裁選の行方に大きな影響を与えてしまうことは、テレビとしてはやってはいけないことではないかと思い、必死で周囲を説得しました。結局、私の方から宮沢サイドに頼み込んで、改めて宮沢さんに私自身がインタビューをすることにしました。異例の再インタビューです。

 ただ、こんなことが可能だったのはこのインタビューがVTR収録だったからです。生放送ならこんなわけにはいきません。宮沢さんが総理になった時、まさにこのテレビの生放送で躓いてしまったわけですから、私とのエピソードはある種、暗示的なことだったかもしれません。

 宮沢総理の時代には日曜朝はテレビの生討論番組がズラリと並んでいる今の状況になっていました。

 東京佐川急便事件をきっかけにした政治改革論議が最高潮に盛り上がったときのことです。小選挙区比例代表並立制を導入することが政治改革だということになっていった、今から思えば不思議な議論の流れの最終局面でした。各局持ち回りで放送する「総理と語る」がたまたまテレビ朝日の番になり、「サンデープロジェクト」の中で田原総一朗さんがインタビューしました。「政治改革、やるんですか?」当初、あいまいな言い方でやり過ごそうとしていた宮沢総理でしたが、田原流の激しい突っ込みでどんどん追い込まれ、「やるといったらやるんです」と断言してしまったのです。

 これが宮沢総理の命取りとなりました。テレビは生放送で一回だけしゃべったことであっても、繰り返し繰り返しVTRとして放送することができます。政治状況がどんどん変化し、政治改革法案成立の成立が難しい状況になっている中でも、何度も「やると言ったらやるんです」という発言が繰り返し放送されました。その挙句、聖時改革法案が不成立になり、宮沢総理はウソツキ総理と呼ばれることになりました。あれだけプライドの高い人ですから、耐え難いことだったでしょうが、結局、内閣不信任が可決し、解散総選挙、自民党分裂、細川連立政権誕生という大激動につながっていったのです。

 テレビと政治が密接に結びついいてくる歴史の大きな変化の中で翻弄されたのが宮沢元総理でした。しかし、宮沢さんの中で何かが吹っ切れたのでしょうか、最近では「報道2001」にも気軽に出演して下さいます。存在感を持った政治家が少なくなっている現状において、私たちにとっても貴重な存在です。あれほどテレビ嫌いだった宮沢さんが、少しも嫌がらずにスタジオまで足を運んでくださる姿が私には微笑ましくてなりません。と同時に、憲法改正という大事業を前に、今何かを伝え、後世に何かを残そうとする宮沢さんの一言一言の重みを改めて感じる今日この頃です。

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