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コラム — ぺるそーな

「ぺるそーな」2005年 2月号

 92年に「報道2001」がスタートして以来、竹村健一さんとはずっとご一緒させていただいています。さすがテレビメディアのパワーを知り尽くした人だけに、すごいなって感心させられることや教えられることがたくさんあります。今回はその竹村さんのキーワードである「日本の常識は世界の非常識」という言葉について、考えてみたいと思います。

 2004年暮れ、休みを利用して上海、南京に行ってきました。躍進する中国を体感するために上海を、そして中国の主張するいわゆる歴史問題の原点を探すために南京を訪問先に選びました。 中国人と言えば、平気で路上に唾を吐く、トイレが汚い、あたり構わず大きな声で喋り捲る、など、マナーの悪い国民という印象が私の中にはありました。

 しかし、実際にこの目で見た上海の中国人はずいぶんイメージが違いました。それどころか、上海の地下鉄などに乗っている中国人が日本人と区別がつかなかったことに驚きました。こんなに中国人と日本人は似ていたのかと意外でしたが、経済的に豊かになると人相まで変わってくるのでしょうか。女性の化粧が日本人と変わりがなくなったことも大きいように思えました。

 もちろん、これは上海ならではの特別な事情のようです。大都会であるはずの南京に行っただけでも全く違いましたから、もっと地方へ行けば、私のイメージどおりの中国人にたくさん出会えたに違いありません。

 ただ、上海でもクラクションを鳴らし続けながら走る車と、横断歩道もまるで無視、歩行者優先の発想が皆無なドライバーのマナーの悪さには閉口しました。「東京にはたくさん車が走っているのに、どうしてあんなに静かなんだろうって不思議な気がしました」と、中国人の友人が語ってくれましたが、確かに東京のドライバーは余計なクラクションは鳴らしません。普段は気づかない自分たちの国の現状が見えてきたような気がしました。

 こういったところを観察することで、中国が今どの程度のレベルに来ているのか、私の中でだいたいの勘がつかめたような気がしました。おそらく、ここまでくる過程では、中国人のマナーを変えるためのさまざまな試みがあったのでしょう。かつての日本もおそらく同じような過程をたどったことでしょう。

 日本の場合、そのためにもっとも有効な言葉となったのが「日本の常識は世界の非常識」という言葉だったのではないでしょうか。日本人を世界に出して恥ずかしくない国民に変えるために、この言葉の果たした役割、そしてその言葉を生む出した竹村さんの功績は大きかったと思います。

 そこで考えました。中国でも同じように「中国の常識は世界の非常識」という言葉で国民を啓蒙してきたのかどうかということです。おそらく、このキャッチフレーズを使ったとしても、それは中国国民の心に響かなかったにちがいありません。それよりむしろ中国人には全く逆のリアクションを起こさせたのではなかったでしょうか。

 つまり、「中国の常識は世界の非常識」だとしたら、それは「世界」の方がおかしい。だから「中国の常識を世界の常識にしなければダメだ」という発想です。自分たちを「世界の常識」に合わせなければならないと思う中国人などいないでしょう。

 中国系住民の多いシンガポールでは、唾を吐くと罰金にして徹底的に取り締まったことから、世界に冠たる美しい都市が出来上がりました。今、上海では交通事故で人を傷つけた場合は、理由のいかんを問わず、ドライバーの方が罰せられるということにしたそうです。つまり、そうやって強制的に歩行者優先の思想を定着させていこうとしているのです。

 それでも現状では、横断歩道を渡っていても車は全く無視して突っ込んできますし、タクシーに乗っていても、いつ事故がおきるかもしれず、とても安心して乗っていられる状況ではありません。歩行者優先の思想をドライバーに広く浸透させるにはまだまだ長い時間がかかりそうです。しかし、中国の場合は、そういった強制力を伴った規制によってでなければ、生活習慣やマナーを変えることはできないのではないでしょうか。

 中国だけではなく、他の国ならどうでしょうか?「世界の常識」と比較することが、変革への動機付けになるかどうかということです。おそらくそんな国はないでしょう。そもそも、「アメリカの常識は世界の常識か?」「フランスの常識は世界の常識か?」「インドの常識は世界の常識か?」とそれぞれの国民に問いかけてみたとしましょう。おそらくどの国民もイエスとは言わないでしょう。そして、それをいけないこと、自分たちが遅れていて間違っているなどとは絶対に思わないでしょう。

 「アメリカの常識を世界の常識にするために我々はいのちをかけて闘っているんだ」それがアメリカの理屈でしょう。自由と民主主義という世界最高の価値を全世界に広げることが、世界の平和と安定につながるというのは、アメリカの国家戦略の基本です。

 「フランスを世界の常識にまみれさせないことが私たちの使命だ」世界の常識などは自分たちよりも一段と低いところにあるものというのがフランス人の認識でしょう。フランス人の強烈な自らの国と文化への誇りはそうやって保たれてきたに違いありません。

 「インドに世界の常識は関係ない。そもそも世界の常識なんてものが存在するのか?」それがインド人の物の考え方でしょう。インドを旅すると価値観が変わるという話をよく聞きます。遺体が流れていくガンジス川で沐浴し、さらに下流では生活用水として使うというインドに「世界の常識」などどこ吹く風という感じでしょう。

 つまり、「世界の常識」と言われたら無条件にひれ伏すような国は日本以外にはないのです。「日本の常識は世界の非常識」と言われると、ほとんどの日本人はすぐに自らを反省します。「我々はやはり遅れているんだ」「早く世界の常識に合わせなければならないんだ」と、何の疑いもなく自分の方を責めます。この発想法によって、戦後の日本が奇跡的な経済発展を成し遂げてきたことは疑いのない事実でしょう。

 しかし、その一方で、日本らしさ、日本人の美徳まで捨ててきたのではなかったでしょうか。そして、自らの国や文化への誇りを失い、芯のない国になってしまったのではないでしょうか。

 私たちはそろそろ発想法を転換すべき時が来ていると思います。「世界の常識」という概念を持ち出して、外と比較しなければ自らの目標を定められないというのはキャッチアップ時代の発想法です。欧米に追いつけ、追い越せと言っている時代はもうとっくに終わっています。

 しかも、グローバルスタンダードだと言われたものが実はアメリカンスタンダードに過ぎなかったと思い知らされたのも、記憶に新しいところです。「日本の常識は世界の非常識。だからこそ日本の常識を守ろう!」少なくともそう胸をはって言える国に一日も早くなりたいと私は思います。

 竹村さん、竹村さんを批判しているわけではありませんよ。竹村さんの弟子を自認したいがために、「いっぺん言うてみたかった」だけですから。

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